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お盆に想う


 今年もお盆の季節となりました。お盆は仏弟子の目連尊者がお釈迦様の力を借りて、餓鬼道に落ちている母親を救い出したという『盂蘭盆経』の話から始められた仏事です。私たちはどの様にこのお盆を迎え、受け止めたら良いのでしょうか?  

 

 「何もしないので助かる」と同時に「あんまり何もしないのでかえって落ち着かない」と、他宗から来られたお嫁さんが浄土真宗のお盆に対して仰っておられました。

 お盆の期間中ずっと家にいて、日に三度、必ずお仏壇に供えた御膳を取り換えるなどした習慣の中で育った人が、いきなり何もしない状況になり、唖然としてしまう。わかるような気がします。

 

 どうして浄土真宗は(他宗の目から見れば)お盆らしいことをしないのでしょうか。その答えの一つに「浄土真宗は年中お盆だから」というのがあります。お盆にはご先祖様が帰ってくると言われますが、ことさらお盆の期間だけでなく、ご先祖様はお念仏の声の中にいつでも帰って来ておられるのではないかということです。

 

 浄土真宗には「お盆はこうしなさい」という決まりはありませんが、お仏壇を中心に、夏らしい季節の菓子や果物をお供えをし、涼しげにお飾りしてください。そして、 お飾りされたお仏壇の前で、静かにご先祖様を想ってください。私の心に帰って来られたご先祖様と静かに対話して、静かにお念仏なさってください。

 

 お浄土は蓮の国です。この世界で一声お念仏を称えると、お浄土の蓮が一つ「ポン」と花開くと言われています。  

 

 


おまかせの心

 

 人生はなかなか自分の思い通りにはなりません。ですから、どんなに頑張ってもどうにもならない時があります。

 ある人の言葉に「自分の力でどうにもならない時には、好機の到来を待つしかない」とあります。どんなに努力してもどうにもならない時は、大きな命の働きに任すしかない。そして、必ずいつか好機が来る。それを待つしかないと教えています。

 

 私達はこの世に生まれた以上、必ず死を迎えなければなりません。100%間違いのない事実です。いくら歳を取っていても死にたくない方は大勢 いらっしゃるでしょう。若ければなおさらのことだと思います。しかし、必ずやってきます。

 

 どうにかなる時には、どうにかしなければなりませんが、どうにもならない時もあります。どうにもならないことを、どうにかしようとするのは 無理なことです。どうにもならない時は「任す」しかないのです。いくらもがいても、計らっても、不老長寿の薬を求めてもどうにもなりません。 任すしかないのです。

 

 例えば、信頼できるお医者さんに、「私の命は先生にお任せいたします」と言えれば安心です。腹が座ります。任すとは結果を問わないことです。 助かっても助からなくても、どちらになってもいいということが任すということです。また、野球の監督がピンチの時、投手に「この試合はお前に任せた」と言ったとします。それはこの試合は勝っても負けてもいい、お前に任せたから精一杯投げてくれということです。

 

 阿弥陀如来さまは、いつも自己中心で煩悩をたくさん抱えて悩んでいる私たちに、「必ず救う、我に任せよ」と、お念仏となって呼び続けておら れます。その呼び声を「はい、お任せします」と素直にいただきますと、仏様は私達の苦悩と悲しみにいつも寄り添いながら、ある時は温かく慰め、 ある時は励まし、生きる力を与えて下さるのです。その大慈悲の心を味わいながら日々を過ごして行きたいものであります。 

 

 


沈丁花 (じんちょうげ)

 

お花の季節を迎えました。皆様の庭先にも色々な花が咲き、またお仏壇にも綺麗なお花がお供えしてあることでしょう。お花と共に仏様をお荘厳するのに欠かせないものがお香です。このお香はもともと仏教独自のものかと思っていましたが、実はそうではないようです。

 

 お香を用いる習慣は古くからインド洋周辺の各地にあり、むしろ仏様を讃えるために、その習慣が仏教の中に取り入れられたのだそうです。ですから、仏教だけでなく、キリスト教やイスラム 教でもお香は使われています。

 

 お香の中でも特に貴重なものとされているのが「沈香」「丁子」(両方とも熱帯産の香木から作る香)です。この沈香と丁子の香を併せ持つところから名付けられたお花が「沈丁花」です。

 このお花の強い香りに接しますと、聖典の「一本の栴檀の若木が発する芳香によって、ついに 広々とした伊蘭林の恐るべき悪臭が浄められた」という、美しい言葉を思い出します。

 

 神様の儀式では、身を清めたりするのに塩や酒を使いますが、仏教ではお香で浄めるのです。 ですから、お葬儀や墓地などの儀式でも塩は使わないでいいのです。必ずお香を焚くようにいた しましょう。  

 

    染⾹香⼈人のその⾝身には ⾹香気あるがごとくなり  

      これをすなわちなづけてぞ ⾹香光荘厳ともうすなり(浄土和讃)

 

 親鸞聖人は私たち念仏者のことを「染香人」(仏様のお徳に染まり、その香りを放つ人)と教 えて下さいました。お香がいつも焚かれるお寺の本堂は、その全体が香りに染められています。人 生全体をいつも包んでくださる仏様からの香りが私たちを染めてくださり、その香りがまた他の人々にも及んでいくとはなんと素晴らしいことでしょうか。

 

 沈香・丁子の香りに包まれて念仏申しながら、自らの悪臭を恥じることですが、染香人を目指 してこれからも、自分なりに精進していきたいと思います。

 

 


何事も縁による

 

 仏教では縁というものを大切にします。全ての物事には、必ず直接的な原因である「因」の他に、間接的な原因である「縁」が加わって初めて、結果である「果」が生まれると説きます。すなわち「縁」が無ければ何事も成り立たないということです。

 

 経典に「この身も心も縁によって成り立ち、縁によって変わるといわねばならない。網の目が互いにつながりあって網を作っているように、全てのものはつながりあってできている」とあります。

 

 私達は父親と母親の縁によってこの世に生まれ、多くの人々と出会い関わることによって、この心は育まれてきました。そうでない人は一人もいません。私達は、だれもかれも縁によって成り立ち、縁によって変わっていくのです。それは、ちょうど網の目のようにお互いに関わり合って生きているのです。決して一人で生きているわけではありません。

 

 そういう意味で、周りの人にとって、自分が少しでも良い縁になるように努めていくことが大切なことです。他人にとって良いようにしていくことが、自分にとっても良いようになっていくということです。

 

 そのことをよく表しているのが「情けは人の為ならず」という言葉です。人に情けをかけることは、人を幸せにするだけでなく、巡りめぐって自分にも良いことがあるという先人の教えです。最近はあまり情けをかけて助けてやることは、結局はその人のためにならないから、 すべきではないというように、間違って使用している人が多くなりました。それは、私たちがつながりあって生きていることをあまり感じ取れない人が増えているからではないでしょうか。

 

 人生は誰でも生かされ生きているのです。色々な出会いを「何かのご縁」と喜び、「不思議なご縁」 と味わっていきたいものです

 


いろは歌

 

 子供の頃に覚えた「いろは歌」は、かな文字を一つも重ねないで、しかも仏教の心を深く伝えたものです。  

 

  「色は匂へど散りぬるを、わが世たれぞ常ならむ」

 

 美しく咲いた花はやがて散ってゆく、そのように私達の人生も世の中も変わってしまう、という無常感がしみじみと歌われています。

 

 最近もご門徒の方が急逝され、悲しい葬儀をお勤めいたしました。人生というものは分からないもので一寸先は闇のようであります。科学がいくら進んでも、人生は無常であるという道理は、永遠に変わらないのではないでしょうか。

 

 お釈迦様の説かれた仏教は、「あらゆるものは変わる」というところから始まりました。この無常の中にあって生きる道はどこにあるのでしょうか。  

 

  「有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」

 

  「有為(うい)」とは、この世の色々な物への執着です。それを山に例え、そういう執着の山を越え ましょう、当てにならない幻のような暮らしに惑わされないでいきましょう、という意味です。

 

 大変に厳しい人生の見方です。当てにするなといっても、つい当てにするのが凡夫の私達です。そして、会えばいつまでもと願い、花咲けば散るのを悲しむのが私達の心ではないでしょうか。人生は無常だと、言葉の上では理解していても、いざ無常がこの自分の上に起こると、あきらめきれないのです。

 

 仏教で「あきらめる」とは「明らかに道理をみる」ということですが、私の迷い続ける心には、正しい道理が正しく見えないのです。

 そこで、大慈大悲の阿弥陀如来様は迷いのまま私を救うことを考えられたのです。南無阿弥陀仏の中に救いの願いを込め、迷う私を救おうと誓われたのであります。


新年のご挨拶

 

 新年おめでとうございます。

 いただいた年賀状の中に、素晴らしい言葉がありましたので、ひとつご紹介いたします。

 

  くりかえしをおそれ、くりかえしをよろこぶ。

 

・・・これだけです。

この短い対句に私はウーンと唸りながら、自分の一生を過去から未来にかけて思いを巡らせました。

 

 まず「くりかえしをおそれる」ですが、あなたは歳と共に1年間が速く過ぎ去ると感じませんか? 

それはなぜかと、私なりに推察してみるのですが、例えば、5歳の子供にとっての1年間は、自分が今まで体験したすべての時間の5分の1にも当たる長い時間です。しかも若い時は、毎日が新鮮な驚きの連続で、自分を充実させます。

 しかし、40歳の大人にとっての1年間は、体験した全時間の僅か40分の1にしかならないわけです。しかも、大人になると惰性で日を送り、「また明日がある」と空しく時を過ごしてしまうようになります。

 創造性のない「くりかえし」が始まったとたん、時間に弾みがつき、ますます加速され、速く過ぎてゆくのではないでしょうか。

 

 惰性に明け暮れて日々をおそれ、今年こそ何か 新しいことを加えてみてはいかがでしょう。

この2018年という年は、あなたの一生にとってただ1度の年であり、初めての年であるはずです。

 

 とはいうものの、くりかえしができるのは、また有り難いことでもあります。

今年の元日も昨年と同様に家族そろって、新年のご挨拶をすることできました。そのくりかえしの日常生活の中に、 しみじみとした喜びを噛みしめつつ・・・

 

「今年も何卒よろしくお願い申し上げます。」

 


『無常』なればこその感動

 

 紅葉の美しい季節となりました。山は緑一色から赤や黄色の彩りへと変化を見せています。今年も多くの人が行楽地へ出向いていることでしょう。

しかし、この鮮やかな彩りはつかの間の美しさ。様々に彩った葉は、いのち燃え尽きたように地面に舞い落ち、冬の到来を待つ。

 

 お釈迦さまは、このことを無常、「すべてのものは消滅変化を繰り返し、とどまることを知らない」と説かれています。

 紅葉が一年中あれば、これほど多くの人が訪れ、喜び、感動することはないでしょう。日々絶えず移り変わる季節の中のほんの一時、その時にしか出会うことのできないものだからこそ、私たちは感動するのです。紅葉の美しさに惹かれつつも、実は、無意識のうちにその奥にある無常感を感じ取っているのではないでしょうか。

 

 私たちが常日ごろ当たり前のように思っているもの。実は全て無常、常にあるとは限らない。

 私が今頂いているこの生命は無常です。

 私が愛している家族も無常です。

 私が頼りにしている友達も無常です。

 私が持っているお金も財産も無常です。

 私が今生きているこの瞬間も無常です。

 このことに気づかされることによって見えてくるものがたくさんあります。生命の尊さ、家族の温かさ、友達の有り難さ、物の有り難さ、時間の大切さ……。

 

 そして、無常の中に生きる私たちだからこそ、唯一、変わることなく、消えることのない阿弥陀如来の教えに出遇って欲しいというのがお釈迦様の願いであり、親鸞聖人の願いなのです。